再現年度・2001年
法政大学からヤクルトに入団。
1年目は67試合出場ながら打率3割、8本塁打の活躍。
2年目からヤクルト外野陣のレギュラーに定着した。
2001年はキャリアハイとなる138試合出場、打率.311、25本塁打で外野のベストナインを獲得しチームのリーグ優勝に大きく貢献。
インコースを捌く名人だが、2001年は高めどのゾーンでも3割7分越えを記録している。
同年は得点圏打率は.303だったが、満塁打率.444(満塁本塁打1本)と満塁には強かった。
そんな順風満帆な打撃成績だったが左投手には極端に弱く、対左投手打率.268で弱点となった。
走塁では走力の割に僅か5盗塁(成功率.556)だったが、内野安打は18本、リーグ最多の三塁打5本を放っている。
肩力は目立つ程の強肩でなかったが、この2001年はこちらもリーグ最多となる11補殺を記録した。
2005年には日本ハムに移籍、大きな故障もなく晩年まで外野や一塁のレギュラーとして活躍。
2014号オフに現役引退。